カテゴリー別アーカイブ: ことばメモ

私が浪人生に憧れる理由と、深い思考経験の話。

私が高校時代で後悔することを挙げるならば
迷わず”浪人しなかったこと”だと答えます。

『もっと勉強してればあの大学に…』とか、そういうのではなくて

初めて自分を深く考える瞬間
浪人という時間にあると思うのです。

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浪人生は、なんだか自分を卑下するけれど
私は心の底から尊敬していて、羨ましいのです。

大学生活を振り返ると仲良くなる人も、…になる人も
浪人生が多くてびっくりします。

(もちろん現役生も多いんだけれど)

活動的な学生を見ても
そこには浪人生がすごく多くて

なんでだろう、なんでだろう、と。

 

そうしてよく考えてみたら、たぶん

・自己の理解が深い
・”何かしなきゃいけない”という意識が強い
・行動力がある

そういう人が多い、気がしています。

視点

私は、深く考える人が好きです。

そこには誰かのうけうりだったり
表面上だけではない自分のことばがあります。

その深みに至る経験は、早いにこしたことがなくて
だから大学入学前にできていることが強みなのだと思います。

そして勉強しなければいけない
受からなければいけないというプレッシャーと戦って

その時間の無意識の成長は、計り知れないものがある…

私は浪人を経験していないからこそ、あくまで”だと思う”しか言えませんが
きっとそれが羨ましい理由なんです。

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はじめて未来を見つめたあの1年間が
きっと今の行動を生み出していて

気づいていないかもしれないけれど
間違いなく浪人は強みなんです。

 

今はもう浪人生になれないけれど
私も負けたくないなあ、と日々思っているのです。

インタビュアーに求められるのは、”余裕”なのかもしれない。

『どうすればインタビューうまくなりますか?』
よく聞かれるけれども答えられない質問。

だって、答えがなかったんですもん…

 

小手先のテクニックの話じゃないんだなあ、と思う今日この頃
飽き性の私が、気づけば1年どっぷりと浸かってきたインタビューの世界。

インタビュアーとしても人としても
とても尊敬する嘉さんと久しぶりにお話して
改めて感じたインタビューの難しさがありました。

嘉さんのインタビューサイトです↓
『田中嘉が、聴く。』
http://yoshimi-tanaka.com/

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私自身もインタビュアーを始めた頃は
「お話して文章に起こすんでしょ〜」という認識をしていたので
そう思う人も多いとは思うのですが

最近「インタビューって難しそうだよね」と言われることが増えて
なんだかそれが嬉しかったりして

いや、しかし、本当に難しすぎます…。

 

インタビュイー(インタビューされる人)に対しては
聴いて、惹き出して、ことばにする

読者に対しては
ストーリーに惹き込み、クリエイティブさが必要になる

それに加えて双方に気づきを与えることが理想であって
インタビュアーはその真ん中の立ち位置で
そりゃあ、やればやるほど、難しいわけです。

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インタビュイーさんの想いと捉え方がすれ違ってしまったり
読者に誤解を招いてもいけない。

ひたすらに誰かの気持ちを考え続けるその行為
何度へこたれそうになったことか。

ひとつの指標としてビュー数があるにしても
それはあくまで数字でしかなくて

人の心を考えることには、本当に答えが無い

 

ひとつのインタビューに関わる全ての人に
『!』というプレゼントを届けるためには

テクニック云々ではないだろう、今の答えに

インタビュアー自身の精神力が大きく影響する』のだ、と
そんなお話を、嘉さんとしていたわけです。

運命の赤い糸

精神力、それを私なりに言い換えるならば

インタビュイーさんの気持ちを、人生を聴き入れる包容力?
読者の気持ちを、ニーズを読み取ろうとする包容力?

なんとか力というと安っぽくなるけれど…
結局はインタビュアーにどれだけ相手を受け入れられる容量があるのか、という話のような。

 

つまりは、余裕のある人になりなよ!的な。

 

いや、簡単じゃないよ…
まあ、こんな私が言えることでもないのは承知の上…

何度インタビューについての想いを綴っても
どんどん私の中の答えは抽象的になってしまうのでしょう。

 

ただ、答えがないから、クセになる。

誰かの気持ちを考えて、こんなに苦しくなるほど考えることが
めちゃくちゃ幸せでして。

ありがとうの言葉だったり、読者に伝わったり
それだけで夜も眠れなくなるくらいに嬉しくて。

ああ、こうやってまた変態になっていく。笑

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これからも、人と人との心が向き合う瞬間に関わっていきたい
だけどまだまだ、答えは見つかりそうにありません。

余裕、ほしいですね。笑

3.11の直後に大学生になった私たちが、就活生になって思うこと。

 

12月の就活解禁を迎え
流れるニュースも合同説明会の様子やら、今年の就活状況に触れるものばかり。

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「景気の回復傾向で求人増が見込まれる一方、多くの企業では依然として『厳選採用』が続いており〜」とか。
「現在の2年生の就活解禁は、経団連の倫理憲章の変更に伴い3年の3月に繰り下げられるため、12月の就活本格化は今回が最後となる〜」とか。

これは例年と同じことなのかもしれないけれど
SNSも就活の話題で溢れ、なんだか慌ただしい様子。

 

だけどちょっと忘れていませんか、テレビさん。
3.11の直後に大学生になった私たちが就活生になったんですよ?

そして、そんな私たちは
東日本大震災直後に大学生活がはじまったのだということを
忘れてはいけないと思うのです。

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高校の卒業式を終えて間もなくのこと
2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。

大学入学を目前に、大学生活への期待を胸にしていたあの頃に
3.11から受けた衝撃は、あまりにも大きすぎるものでした。

 

あれからもうすぐ3年、何を思って生きていたのだろう

ボランティアにしなきゃ、学生団体入ろうかな
バイトだけじゃいけない気がする、とか

『何かしなきゃいけない』と意識する学生
いわゆる意識高い系学生が生まれたのも
この3.11のタイミングだったと思うのです。

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かくいう私も、その一人でした。

『宮城県名取市閖上』
ニュースに何度も取り上げられた、この小さな港町に生まれた私は
たくさん泣いて、たくさん失って、たくさん苦しかった。

思い出したくないのか、今でもあまり記憶がないくらいに。

 

ただ、初めて現実と向き合えた時に
『強くなりたい』『力がほしい』と思いました。

『何かしなきゃいけない』
まさにこの想いに突き動かされて、今までがむしゃらに駆け抜けてきました

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その想いに急かされて生きてきた、大学生活をまるっと駆け抜けてきた私たちは
誰もがきっと、3.11の経験から得た大きなものがあるはずだと思うのです。

そうして価値観が変わったり、行動が生まれたり
大きくても小さくても想いを持っている人は
いわゆる『今年の就活生』にたくさん居るはずなのです。

 

自分自身も就活生の手前、何もえらそうなことを言える身分ではありません。

ただ、『就活で話せるネタが無い』なんてよく耳にしますが
けっしてそんなことはないと思うのです。

だったら私は、何もできません。

ビジネスもできないし、リーダーシップも分からないし…
ただ、どう生きたいのか考えることから
未来に向き合うことから、ぜったい逃げたくないのです。

 

就活は初めてキャリアに向き合う第一歩です。

何を成し遂げたいのか、どう生きていきたいのか
私たちは、いったいどんな将来を見ていくのでしょうか。

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そう思ったら、すごくわくわくしています。
みんなで考えていきたいのです、これからのことを。

日本の未来を創っていく、はじめの一歩

2015年卒、就活解禁です。

営業女子ということばに感じる、オトコ・オンナの日本特有カテゴライズ。

先日のニュースZEROを見ていると
『営業女子』が特集されていました。

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特集されていたのは
女性営業のための応援コミュニティ『営業部女子課』
http://www.eigyobu-joshika.jp/

このコミュニティの目的は、女性営業職の活躍を拡げることで
結果男女ともに輝きながら働ける社会創造を目指している、とのこと。

 

特集でも営業ノウハウを実践したり、女性営業の現状などが挙げられ
ふむふむと頷きながら観ていて感じたこと

やっぱりまだまだオトコ・オンナで区別されているんだ、という驚き。

女性の社員さんで営業で活躍されている人にも
たくさん出会ってきたからこその驚きでした。

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私はいろんなものをカテゴライズすることが苦手だからこそ
この営業女子というフレーズに食いついてしまったわけですが

○○女子と言われる、ということはまだまだマイノリティなのか
営業そのものが男の人の仕事っていう認識だったことの表れなんですね。

 

お友達のちなまい曰く、海外から来た人にとってみれば
そもそも○○男子や○○女子なんて男女で分けることに疑問を持つそうです。

たしかに、これは日本特有の気がします。
良くも悪くも、けっこう悪くも変な文化だなあ、なんて。

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ここまで思うのも、以前フリーペーパーで営業をやっていて
私は営業が大好きになったことが要因かもしれません。

たくさん頭を使って、自分自身の魅力も使って
学生レベルかもしれませんが
あんなに楽しいコミュニケーションがあるんだ、なんて実感したのです。

そういえばその時は、『女子だから』という意識は何もなかった。

 

男とか女とか、ぱっきり分けることには日本の文化の影響があるわけで
もちろんそこに文句を言うことはないですが
○○女子と表記することでその特別感に頼るのはまた違うような気がするのです。

男だから当たり前、女だからすごい、なんていうのも話が違うわけで
それは女であることを負けだと認めるような気がして嫌です、私は。

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スーツの女性、この画像を出すにも苦労しました(笑)。
オトコの人なら簡単に画像出てくるのに……

 

営業って、素敵なお仕事なんですもん。

オトコだとかオンナだとか
そんなことが気にならないくらい、楽しめればいいなあ。

 

人の心に寄り添える
クリエイティブな営業がやりたい、なんて。

『JPモルガン社長が「お金持ちと結婚したい美女」に語った言葉』に見る、幸せの立ち位置。

久しぶりに書くことがこれか、となりますが
みやけようのジェンダー論(笑)。

シェアで回っているこの記事、おもしろいけれど本質ですよね。

『JPモルガン社長が「お金持ちと結婚したい美女」に語った言葉が秀逸すぎる! 「美女はレンタルで十分!」』

http://news.livedoor.com/article/detail/6892573/

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女性の立ち位置は、いつだって難しい。

私は女子校だったからからか
(品のいい)無法地帯で男の目を気にすることなく生きてきて

それが当たり前になりすぎて
自分が女だとか男だとかの感覚が皆無なのです。(本当に)

 

そうして大学に入って
女だからできないことのカベに苦しんでいました。

野宿、夜更かし、ヒッチハイク、過度なダイエット…
やろうと思えばできるのかもしれないけれど、何かが邪魔する。

カラダがデリケートだからとか、何かがストッパーになって
すごく単純でも私にはけっこう深刻で

やりたいことに貪欲になれない
夢に貪欲になることがこんなに難しいなんて、と

女であることの劣等感に苛まれていました。

 

目に見えないけれど、スタートラインにも立たせてもらえないような

男だとか女だとかうるさいよそこに並ばせろボケぇ!
内心はこのように荒れ狂っていました。

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うーん、男に頼りきって生きなければいけないのでしょうか?

それでいいのがこのコラムでいう美女で、頼りきることが目的であるわけで
だけどそれは自分の人生なのかな、と思うと私は虚しいのです。

女に生まれたからには女として死にたいのです。

 

女だから夢を諦めろ、という話でもなくて
(というかそんなんだったら荒れ狂っているだろうし)

ただ最終的に女だからこそできて、女にしかできないことは
輝こうとする男の人を支えることなんじゃないかな、と。

それができる人が、このコラムでいう
「長期保有したくなる人」ではないでしょうか。

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結婚したから夫婦になるのではなくて、 
子どもが生まれたから夫婦になるのではなくて、
挫折を乗り越えたから夫婦になる。

北斗晶さんのことばが染み渡る、秋の寒空です。

 

みやけようジェンダー論については、また次も。

幼稚園児に学ぶ、なぜ・なぜ・なぜ?

 

ある日の夕暮れどきのお話です。

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帰宅ラッシュで座れない満員の車内に
見慣れた電車広告にため息をついていた時

電車に乗ってきた、ちっちゃくて大きな元気の塊たち。

遠足帰りの幼稚園児の集団と先生が
電車内を明るくしました。

 

そんな時、私は決まって
つけていたイヤホンを外すのです。

何だか、おもしろい学びの予感がするからです。

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子どもたちは、まさに自由奔放

疲れて眠そうな目をこすったり
耳当てを落としてワタワタしたり
電車の揺れにふんばったり

見ているだけで楽しく、笑顔になってしまうような子どもたち。

 

そうしてある駅に停車した時
「降りるよー!」先生の一言で降りていった子どもたち。

「けんくん降りちゃった!」
「ここまだでしょー!?」
残った子どもたちは、騒ぐ騒ぐ

すると降りたはずの先生と子どもたちは、また戻ってきた。

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『あ、他の乗客のために降りたのか』
当たり前のように把握した私だったけれど

「なんで戻ってきたのー?」
「なんで降りたのー?」

車内は幼稚園児の、なぜ・なぜ・なぜの嵐です。

そうして先生が口を開く
「それはね、入り口に人が居ると他のお客さんが降りられないからだよ。
だから降りて出してあげるんだよ。」

「そうなんだー!」
「帰っちゃうのかと思ったー!」

 

そっか、この子たちは分からないのか

なんだか、ハッとさせられました。

いつから私はこんなに知ってしまったんだろう
考えなくなっていたんだろう

なんで水たまりに顔が映るんだろうとか
なんで空は青いんだろうとか
なぜ・なぜ・なぜって、思っていた頃があったのに。

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彼らはきっと、ぐんぐん吸い込むスポンジ
わたしは無駄に、吸い込むことをやめていたのかもしれない

これからは、もっと様々なことに疑問をもっていかなければいけない

 

鵜呑みにせず、自分の頭で考えなければいけなくて
そうしない限り求める以上の成長はないな、なんて

ちょっと大げさかもしれないけれど
幼稚園児から教えられた気がしました。

いつまでも、幼稚園児のようなこころで
なぜ・なぜ・なぜ?

好きなら、好きって言いなよ。

 

大人になればなるほど、『好き』って言わなくなっていたなあ
なんてことに気づいた今日この頃。

昔だったら
「○○ちゃん好きー!」とか
「ファッションが好きー!」とか

なんでもすぐに『好き』って言えていたのに

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大学生になると
告白することもだんだん少なくなったような気がして
カップルができるにしても「じゃあつき合っちゃう?」みたいなノリだったり

告白の台詞を考えてたり、たくさん手紙を書いては間違えて消したり
泣きそうなくらい緊張してたあんな頃があったのに、なんて。

 

ということで、辞書で調べてみました。

すき 【好き】[名・形動]
心がひかれること。気に入ること。また、そのさま。 ⇔嫌い。

 

日常に心惹かれることなんて山ほどあるはず
だけど言えなくなったのは
『好き』にハードルを感じるようになったんですよね。

それは責任なのか、リスクなのか
何かを『好き』と公言してしまうと

謎のフィールドに乗せられてしまう。

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「お前の好きはまだまだなんだよ」「私はもっと好きだし」
同じものを『好き』な人から言われるこの恐怖。

100歩譲ってそう言ってくる人を”自分より好きな人”だとしよう
だけど、今の自分の好きの位置その人だって通ってきたはずですよね。

 

好きなものとか好きなこととか
それって、言ったもん勝ちだと思うのです。

だったら好きだと言うだけ言って、もっと好きになればいい。

まだまだ好きじゃない自分に気づけば
もっと知りたくなるはず
もっと好きになりたくなるはずです。

ちょっと好きが、大好きになる。

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私は『好き』ということばが、好きです。

好きということばのある空間には
そこには共感だったり、笑顔だったり
あたたかいものがいっぱいあります。

もっともっと、みんな好きになればいいのに
好きって言えばいいのに、なんて思っています。

あなたがほしいものは、人脈ですか?

 

SNSが普及して、誰とでも繋がりやすくなった今の時代だからでしょうか
最近、大学生でも人脈を意識する人が多いような気がします。

意識高い≒人脈が広い
そんなイメージがあるような。

そうして焦っている人を見ていると
「そんなのまだ必要ないよ」と思うのです。

 

私も人脈が広いとよく言われますが
まずもってことば自体が好きではありません。

出会いが人を変えていく
人が人を変えていく

心の底から事実だと思っていますが
「人脈がほしい」とか、「人脈が羨ましい」とか

私には分かりません……。

人脈人脈っていうけれど、そもそも人脈って何ですか?

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気になって調べたことがありました。

人脈
《山脈・鉱脈などになぞらえた語》
ある集団・組織の中などで、主義・主張や利害などによる、人と人とのつながり。「豊富な―を誇る」

 

利害、つまりはメリットデメリット
大学生でそんなこと考えて友達作っているわけないじゃないですか……。

こうして意味を知ってから余計、こんな言葉を使われたくないなあ、と。

自分が今まで出会った大切な人たちとのつながり
そこにあるいろんな思い出が
人脈なんて一括りにされたら、なんだか冷たいことばに感じるのです。

 

人との出会いはもっとあたたかいもの
最初から目的のためだけの出会いなんて、ただむなしいだけです。

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私は昔から、人が好きです。
というか、好きだと思ってしまう人に恵まれています。

それなのに、ひとつだけおざなりにしてきたものが
家族でした。

今となっては言い訳ですが、外ですごく神経を使ってしまうからか
家ではまったく気を使うことができなかったんですよね。

家族の気持ちも考えず、自分勝手なふるまいをしては
いつもいつも喧嘩ばかりの毎日。

そんなある日、母から言われた言葉がありました

 

友達や人との関わりを大切にしているつもりかもしれないけれど
家族も大切にできない人が本当に思いやることができているの?

 

外にばかり目がいって、近くをまったく見れていなかったことに気づかされ
人との関わり方を考えさせられた一言でした。

今となっては母ともとっても仲良しになりましたが
今もこの言葉は、深く残っています。

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出会ったらとりあえずFacebookやTwitterで
つながることが人脈なのでしょうか。

出会った人数を争うゲームが人脈なのでしょうか。

 

そんなはずはない。

目の前の人を大切にできない人が、
人との出会いを大切にできるわけなんてない。

 

ただ繋がるのではなくて
そこに何か存在しなければ意味が無いと思うのです。

脈は、血液が流れててこそ、脈をうつんです。

 

それはまた会いたいという想いだったり
一緒にいたいという気持ちだったり
何かしていきたいという願いだったり。

とにかく、あたたかいものであってほしいと思っています。

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人ともっと出会わなければいけない義務なんて
そこに焦りを覚える必要なんてないんです。

ただ、たくさんの人に出会って、話して
涙を流して、笑い合って、共感して

 

その時間は本当に幸せな空間だから
私は大好きです。

 

今は、それでいいじゃないですか?

芸能人が美しい理由と、『人に見られる』スキルアップ。

 

 

芸能人が美しい理由と、物事のスキルアップに共通することという
なんだかカタい内容に見えますが、言いたいことは単純で

わざと人に見られるようにすることがすごく大事だということなのです。

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以前東京で働く方とお話した時に
「都会の人はあか抜けていくんだよね。」と言っていました。

それは身近で言えば大学だったり、街の中だったり
都会がどこに行っても人が多い。

人が多ければ多いほど、もちろん人の目にも触れるわけで
無意識的にも人に見られる環境におかれると女の子なら一層
ファッションやメイクや体型といった見た目
つまり、どう見られるかを気にしてしまうということです。

 

それでは分かりやすく、芸能人では?

芸能人という典型的な『見られる』お仕事を見てみても
タレントさん、俳優さん、女優さん……かっこいい、美しい、もちろんです。

だけど芸能界を退いたとたんに太ったり、美しくなくなったり、輝きがなくなったり
そういう芸能人の方いっぱいいますよね。
(あの人は今!?みたいな)

 

女性芸能人ならなおのこと美しくありたい、きれいと言われたい
そう思う生き物ですから顕著で

人に見られるということは
自分にプレッシャーをかけ続けることができるのです。

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そういったものと、物事のスキルアップに共通性を感じました。

何をやるにせよ、わざと人に見られる状態にしてみるんです。

それをできるものが講演会に出ることだったり、人前で発表する機会
ネットならブログやSNSを通じた発信なんてものも、そう。

SNSは特にコミュニケーションツールとしてではなく発信ツールとして使うこと
わざと人に見られる状態になっているということ。

 

誰かに見られることは恥ずかしいです、傷つくこともあります。

そうした肌感ではネガティブなことが多く、あまりやりたがらない人も多いですが
だからこそ自分の至らなさに気づき

「もっと勉強しなきゃ!」「自分まだまだで恥ずかしい!」とプレッシャーを感じて
物事への責任感や向上心が生まれるのだと思います。

すごく体育会系思考なやり方ではありますが(笑)。

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私もこうしてブログを書いていますが
未だに文章がうまいなんて思っていません。

「広告好きだー!」と語っていますが
詳しい人はたっっっっっくさん居ます。

自分なんかより知識を持つ人と話して、自分の知見の狭さにショックを受けたり
「みやけようがどんなもんなんじゃ」と厳しい意見をいただき続けてきました(笑)。

 

でも自分が発信しているからこそフィードバックももらえるわけで
この環境を作ることがすごく大事だと思うのです。

だからもっともっともーーーーーっと
「負けたくない!」と思うんです。

 

だからこれからも、私は発信していくことはやめません。

わざと人に見られる環境を作ることが
成長意欲を生み出し、新しい自分に出会えるキッカケになると思っています。

 

 

環境を選ぶ人になるのか、環境を創る人になるのか。

選択肢が多いことが好まれる傾向の中で
身をおく環境も選びやすくなっています。

そんな今こそ、先輩に言われたひと言から

環境を選ぶ人になるのか、環境を創る人になるのか
考えてみようと思いました。

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正直、以前は
「仲間が最高」「就活の軸は”人”でした」なんて聞いても
なんのこっちゃと思っていましたが
まさか自分が、人が大事な要素だと思う日が来るなんて。

それは本当に、今まで出会った人に恵まれたからだと思います。

何かを一緒にやってきた人、悩んだ時に語り合った人
他愛もなく笑い合った人、お酒を酌み交わした…なんて

もう数え上げたらきりがないくらい
大学生活は人に溢れていました。

 

東北で18年間過ごして
誰一人友達のいない中で関西にやってきて

今の環境があるのは夢みたいで。

サークル、学生団体、セミナー、起業家、ボランティア…
本当にいろんな環境に飛び込んできて

最初は何がやりたいかが動機だったことが
いつのまにか誰とやりたいか、になっていたのです。

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人に軸がいくこともまた必要な要素ではあるけれど
だけどきっと、この先に新しいフェーズもあるような気がしています。

それが
環境を選ぶ人になるのか、環境を創る人になるのか

それは
好きな人たちのいる環境を選び続けるのか
好きな人たちに囲まれるような人間になるのか

ということで
だったら、後者になりたいと思ったんですよね。

 

『こんな人になれる環境』『こんなことができる環境』って
きっと探せばあるのですが

あくまで生きているのは自分の人生で
一番成長すべきは自分自身

環境を受け身で求めれば求めるほど、しんどくなるだけで
見つけて身を投じたとしても環境の中に埋もれてしまう。

環境に埋もれるくらい全力でやってみる経験はいいけれど
自分の目的や意思がなければ

『あなたはどこへ行ったの?』となってしまうような気がして。

 

最初はキッカケにはいいかもしれませんが
いつまでも環境を選び続けていたら

成長しているような気になってしまうだけ

そこに本当の成長はないようで、私は怖いです。

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環境を選ぶ時、人は心地よい環境を選びがちだと思うのです。
何より私がそうだったから。

『これができなきゃ嫌』とか
だったら自分でやれば良かったなあと。

『こんな人がいなきゃ嫌』とか
だったら自分で集めれば良かったなあと。

『こんな環境じゃなきゃ嫌』とか
だったら自分で創れば良かったなあと。

 

好きな人たちに囲まれるような、心地よい環境を創る人になれるように
まずは自分自身を突き抜けるほど高めなければいけないのだと再確認しました。

あなたがなりたいのは、どっちの人ですか?